「日本の人事部」Q&Aコーナー回答者就任について
新日本保険新聞連載 新米社労士イノキュウの現場からの本音の報告⑦(2024年10月掲載分)
こんにちは「社労士・行政書士イノキュウ」の井上久です。
おかげさまで、本コラムへの連載執筆も今回で7回目となります。
今まで、私が社労士・行政書士として、現場で体験してきた話をお伝えさせていただきましたが、そろそろ、そもそも、なぜ、私が社労士・行政書士なったのかについて、今回から3回にわたりますが、お伝えさせていただこうと思います。
1.絶頂からの転落
さて、お陰様で今こそ「何とかやれる」という、自信のようなものが芽生えてきましたが、私が社労士・行政書士を目指すきっかけは、とても人にご披露できるようなものではありません。しかし今日は、勇気を出して、正直にお伝えしようと思います。
それは、今から約16年前。私は、損害保険会社の神奈川支店長から、2008年4月1日付で、本社の自動車営業第一部長に栄転しました。当時はまだ、運転手付きの車や、数千万円の高級ゴルフクラブ会員権の付与など、給与外の待遇も非常によかった時代で、正に、人生の絶頂期にありました。おまけに、このポストに就いた社員は100%、執行役員に就任。その後は、取締役、常務、専務と昇格する社員も珍しくなく、ある意味で、「将来を約束されたのも同然」のポストだったのです。
周囲の社員や取引先からは、「井上大部長!」とか、「よっ、将来の社長!」とか、ありとあらゆる賛辞や煽ての言葉が降り注ぎました。自分自身も「これからが本当の勝負だ。目いっぱい、やってやろう。登れるところまで登って、社長になってやろう」と、燃えに燃えていました。
しかし、着任してわずか4日目、2008年4月4日金曜日が、運命の日となったのです。
前述の通り、社員からも持ち上げられた私は、すっかりいい気になっていたのでしょう。
4月4日の歓迎会の席はおおいに盛り上がりました。会の後半には、無謀にも若い社員との一気飲みにも応じ、不覚にも、すっかり酩酊してしまったのです。そして、あの“事件”を起こしました。
すべては私の至らなさが招いた結果です。女子社員の体に触るなどの、いわゆる「セクハラ行為」を行ってしまったのです(お恥ずかしいことに泥酔しすぎて記憶がありませんが、目撃者が多数おりました)。
4月14日、月曜日。担当役員から、自宅謹慎を命じられました。
「いずれ、人事部から連絡があると思うので、自宅でいつでも連絡がとれるようにしておいてください」自宅謹慎なので、当たり前ですが出社できず、勿論、外出も禁止で、自宅からも出られません。よって、普通なら会社員が出勤する月曜日から金曜日の日中、ず~っと、大の大人が家にいるのです。自宅には、妻がいます。当然隠しきれません。翌朝、正直に事情を話したところ、
「身から出たサビね。あなた、自分の娘がそんな目にあったら、殴り込みにいくでしょ。自分のしたことを胸に手をあてて、よく考えてみなさい。娘たちへの言い訳は、自分で考えなさい」
と言い渡されました。「本当にもう、いい加減にしてください」と、あきれ果てた溜め息と共に……。
社会人になりたての長女には本当のことを打ち分けると、
「お父さんの社会人としての仕事ぶりは認めるけど、人間としては全く、認めていないからね。だけど、自殺だけはしないでよ、お母さんが困るから」と言われ、返す言葉もありませんでした。
こうして自宅謹慎が始まりましたが、一向に人事部からの連絡は入りません。
「水曜日か木曜日ころに連絡があり、金曜日に会社に来いといわれ、厳重注意くらいで終わるのだろう」と、最初はそんな風に考えていました。なぜなら、自分は会社に多大な貢献をしてきたのだという自負があったからです。
しかし現実は全く、そんな甘いものではありませんでした。
連絡がないまま1週間が経過し、2週間目に入ったころから、「もしかしたら、想像より大事になっているのかもしれない」と危機感を覚え始めます。生まれて初めて会社の就業規則――懲戒事由の項――を真剣に確認しました。
相手の望まない性的言動により、他の者に不利益を与えたり、就業環境を害すると判断される行為等をした場合、懲戒処分に処す。懲戒の種類は以下の通りとする。「謹慎」「出勤停止」「降級」「論旨退職(論旨解雇)」「懲戒解雇」……。
懲戒解雇。ここでようやく、クビもありうるのだという現実を認識しました。
「……もしかしたら、懲戒解雇に向けての準備を周到にしているのではないか。そのための自宅待機?」
就業規則の確認後、人事からどんな話をされるのか、大体の想像がついた気がしました。
「井上さん、あなたが行った行為は懲戒解雇に該当します。しかし、あなたにも生活があり、将来がありますから、今ここで退職を申し出れば、『懲戒解雇』ではなく、退職金が100%支給される『論旨退職』とさせて頂きますが、どうされますか?」
こんな形で退職勧奨をされるのだろう、と(実際、その通りだったのです)。
(次号に続く)
新日本保険新聞連載 新米社労士イノキュウの現場からの本音の報告➇(2024年11月掲載分)
こんにちは「社労士・行政書士イノキュウ」の井上久です。
前回から、私が何故、社労士・行政書士になったのかについて、お伝えさせていただいておりますが、前回は、私が歓迎会でセクハラ行為をしてしまい、自宅謹慎を命じられたところまでをお伝えさせていただきました。
2.人事部からの呼び出し
4月の終わりに、ようやく人事部長から直接電話があり、「明日、出社してください。その際は必ず印鑑を持参してください」と指示されました。
この自宅謹慎の期間中は 、色々と考えました。毎朝、自宅の前を通って駅に向か う 、通 勤する人々の姿を見ては、
「あ~、普通に働けるってどれだけ幸せなことなのだろう」
「自分から会社の役職を取ったら、本当に何の価値もないただのおじさんだな」
「このまま世間に放り出されたら、月10万円も、いや、1円も稼げないのではないだろうか」等々。
人事部に出頭してどうするか、考えました。悩みに悩みました。
自分にとって、一番大事なのは何か。それは家族だ。妻と3人の娘だ。そして、娘2人はまだ大学生。娘たちが社会人になるまでは、どんなことにも耐えよう。家族を守るためなら、どんなことも受け入れよう。
「どんなに泥を被っても、家族を守るためなら、誰から、何を言われてもかまわない」
そう、決意を固めました。
人事部長は、かつて一緒に仕事をしたことがある一年後輩でした。
「井上さん、残念ですが、井上さんが行った行為は、懲戒解雇に該当します。しかし……」
予想通りの退職勧奨に、私は必死で食い下がりました。
「どんなことも受け入れますが、退職だけは勘弁してください。挽回のチャンスを頂きたい。降級でもなんでも受け入れますから」
「井上さん、本当に厳しいですよ。降級というのは、部長から副部長になるというようなレベルではありません。管理職でなくなり、平社員になるのですよ。自分の子供と同じくらいの歳の社員と同じ待遇になるということですよ」
それで構わない、とにかく会社に残してほしい、と懇願しました。
「……分かりました。できるかどうか分かりませんが、その線でやってみます。だけど、本当に厳しいですよ」こう釘を刺されつつ、人事部を後にしたのです。
3.猛勉強、開始
それから2週間後。一般社員への降級と共に、損害サービスセンターへの異動が発令。以後、賠償主任(人身事故の被害者の担当者)の仕事をすることが決まりました。
「あ~、井上さんも落ちるところまで落ちたな」「もう、終わりだな」
周囲はそんな風に思っていたでしょうが、私の認識は違いました。
「何とか首の皮一枚、繋がった。与えられた仕事を一
日も早くマスターして、日本一の賠償主任になってやる」
同時に、これからはとにかく自分を磨こうと考えていました。今回、なんとかクビは免れましたが、いつ何時、「価値のないおじさん」として世間に放り出されるか分かりません。そうならないために、誰が何と言おうと、自分の意志で収入を得られる職業に就こう。そ
れには資格の取得が不可欠だ。
こうして、損害サービスセンターに出社する 5月26日から、1日6時間の勉強を開始したのです。
往復の通勤電車の中で3時間(1.5時間×2)、出社前にハンバーガーショップで1時間、帰宅時に自宅最寄り駅のコーヒーショップで1時間、帰宅してから就寝するまでの間に1時間で、計6時間。
この時点で、「何としても行政書士になりたい」と思っていましたが、いきなりは無理だろうと、まずは、法律関係の試験の登竜門であるFPへの挑戦を決めました。そして、ユーキャンの通信講座で勉強開始です。
平日は勿論、休日に出かけるときも必ずテキストを持ち、家族が買い物をしている間、私はショッピングセンターのイートインスペースの片隅で、黙々と勉強。
「何でこんなことに……」とか、「あれさえなかったら今頃執行役員になっていただろう」とか、様々な悔しい気持ちが湧いてくるのですが、テキストに集中し、勉強している間だけはその悔しさから解放されました。ある意味では、勉強が精神安定剤だったのかもしれません。
(次回に続く)
新日本保険新聞連載 新米社労士イノキュウの現場からの本音の報告⑨(2024年12月掲載分)
こんにちは「社労士・行政書士イノキュウ」の井上久です。
前々回から、私が何故、社労士・行政書士になったのかについて、お伝えさせていただきます。前々回は、私が歓迎会でセクハラ行為をしてしまい、自宅謹慎を命じられたこと、前回は、人事部長に命乞いをして、平社員への降格で会社に残り、猛勉強を開始したところまでをお伝えさせていただきました。
(3)行政書士・社労士試験に合格!
勉強している時だけ、悔しさ、虚しさ、寂しさから解放されるのですから、勉強がイヤだとかしんどいとか、辛いと思ったことはありません。
1日6時間・月180時間、年2,000時間超の勉強で、2008年の秋に FP(AFP)に合格。2009年1月からは宅建士(※受験時は宅建主任者)の勉強を開始、一発合格。いよいよ2010年1月から、行政書士の勉強開始です。
最初の1年は通信教育での挑戦でしたが、やはり、通信だけでは限界があります。翌年は教室講義を加えてみたものの、2年目・3年目も不合格。この時はさすがに、「これ以上、何を勉強すればいいんだ」という気持ちになりましたね。
2013年の年明けからは、最終到達点と考えていた社労士の勉強を開始しました。予想通り? 初年度は全く手も足も出ず不合格。しかし、社労士試験終了直後に、今度は行政書士試験のラストスパート。
この短期集中の取り組みが功を奏し、4回目にして、2013年11月、なんとか行政書士試験に合格しました。
社労士試験はその後3回、不合格になりましたが、「挑戦を続け、自己ベストを更新していれば、いずれ、いつかは合格できる」と信じて挑戦を続け、5回目、2017年8月に、奇跡的に合格できました。
(4)定年退職と同時に開業、そして、今後も目標
2021年4月1日に65歳の定年退職と同時に開業いたしました。
最初は、毎日が日曜日の物音ひとつしない超暇な軸を過ごしましたが、4ヵ月目頃から、
いろいろな仕事が入り出し、おかげさまで、今は、毎日、忙しくさせていただいております。
その中で、現在の私の仕事の中心は、2021年9月から、縁あって、その仕事をさせていただくことになりました「働き方改革推進支援センター」の仕事です。「働き方改革推進支援センター」とは、政府が2019年にスタートさせた「働き方改革」の推進に向けて全国47都道府県設置したセンターで、事業主様のさまざまなお悩みや課題の解決に、いろいろな方法でお応えする機能を有したセンターです。
現在、私は、「東京」、「神奈川」、「千葉」、「京都」の4センターで、電話相談対応と訪問コンサルタントの仕事をさせていただいており、1日に2社から3社、さらに多い時には4社、センターに支援要請をいただいた事業主様を訪問もしくはZoomミーティングで面談し、「悩んでいること」や「困っていること」を伺い、解決に向けたアドバイスを行っており、現在までに延べ1,250社(2024年8月末現在)を超える事業主様の様々な相談に接してまいりました。
事業主様からのご相談は、作り事ではない「本気・本音・本物」の相談ですので、正直、即答できるようなことはめったにありません。しかし、原則、当日、どんなに遅くとも翌日、朝一番までに返事をするようにしております。この事業主様からのご質問・ご相談は、新米社労士の私にとっては宝の山なのです。なぜなら、この「本気・本音・本物」のご相談・ご質問に対し、ひとつひとつ懸命に対応してきた結果、知らない間に、力がついていたというのが実際のところだからです。
この会社への訪問(Z00mによる面談を含む)活動により、着実に力がついたことを実感しておりますが、まだまだ、道半ばです。
私は満70才で迎える開業5年後の26年3月末までに3,000社訪問(Zoomによる面談を含む)を達成し、真にお客さまから信頼される万全の対応力を有した社労士・行政書士となり、2026年4月1日の開業6年目からが、真のスタートであると考えております。それまでは、毎日が、修行ですから、愚直に粘り強く、正直、損得は抜きにして、お客さま訪問を続けてまいります。これからも、よろしくお願い申し上げます。